・北欧行き思い立った夜学生時代
今から35年前、当時私は仙台の夜間大学に在籍していた。文字通り昼間働いて夜学に通う勤労学生であった。級友となぜ我々は昼の学校にいけないのか、なぜもっと生活しやすい社会がないものかなどと、それこそ夜を徹して話し合ったものだった。
そんなある日、北欧に社会福祉国家があるということを耳にした。社会福祉国家とはその国の国民全ての生活が「揺り籠から墓場まで」保障されているというのであった。私は見知らぬものに一目惚れしてしまい学校を卒業したら北欧へ行こうと決めた。行って自分の目で、自分の体で生活しやすい国とはどんな国なのか確かめたかったのである。
自分が確かめたものを日本に持ち帰れば日本は住み良い国になると、私は単純に信じ、卒業
後一年間をかけて渡航のためのお金を工面した。
・反対の両親に「自分は無鉄砲で行くから安心を」
私の両親は二人とも明治生まれで、私が日本を出るときはすでに70代後半になっていた。私が北欧に行くと言ったら当然のように二人とも反対した。夜学を出て取れる資格はだいたい取っていたのでそのうちの何れかを選ぶことを望んでいたからだ。更に反対した理由は私が片道切符で行くということと500ドルしか持ち出せないことだった。そして何よりも一番懸念したのは北欧に誰も知っている人がいないということであった。
明治生まれの両親を説得するため私は言った。父や母と同年代の夫婦の息子たちはかって御国のためにと鉄砲を持たされて外国にやられたけれど、自分は無鉄砲で行くのだから心配は無用と説いた。善意は見知らぬ土地でも通じる、扉はたたけば開かれる、精神一到何ごともなさ
ざらん等と古い言葉をまくしたてたら、何とか納得してくれた。
・昭和42年、バイカル号に乗り込む
昭和42(1967)年4月、ちょうど美濃部都知事が初当選した年に私は横浜からソ連船バイカル号で出国した。船上のバンドが蛍の光を奏で始めると見送りに来ていた友人や家族に絆として投げつけたテープがプツンプツンと切れ、彼らの姿は桟橋とともに春霞みの彼方に退いていった。
船内放送で私の名前が繰り返し呼ばれているので我に帰った。ここはすでに日本ではないのだと。いきなり船長室への出頭命令に前歴がばれたかと愕然としたものだった。覚悟を決めて船長の前に出ると私を日本人船客の団長に任命するということであった。なんてことはない船長の伝達係兼今で言う添乗員をただ働きさせられたわけである。
しかし船倉に閉じ込められるよりはまだしもましだと自分を納得させて、以後ナホトカで下船してモスクワ、レニングラード経由でソ連圏を出てフィンランドのヘルシンキに着くまでその仕事をすることにした。
当時海外旅行が解禁になったばかりの年で20数名の日本人たちが一団体をなしていた。大学を中退あるいは休学して無銭旅行をしようとする若者がほとんどであった。みんな大きな登山リュックを背負い登山靴にジャンパーという出で立ちである。
・フィンランド。残雪のかたわらで日光浴
ヘルシンキでの宿は当然にユースホステル。日中皆で街に職探しに繰り出す。若者たちは街のレストランで皿洗いの仕事を探し2〜3ヶ月働いて旅費を貯め次の国へ旅行するというのが当時のパターンであった。私も街に仕事を探しに出るのだが、育ちが良かったせいか人が食べた皿を洗わしてくれとはどうしても言いかねたのだった。
3日しか滞在できないヘルシンキのユースホステルを後にヒッチハイクで次の街へと向かった。4月の下旬だというのに天気がよい日は残雪の傍らで日光浴をしているフィンランド人には驚かされた。次の街でも職は見つからず、持ち出した500ドルは毎日確実に減っていった。寒いフィンランドをあきらめ、スウェーデンへ渡ろうと決めた。
・スウェーデンでも仕事は無かった
日本を出るとき、北欧ならどの国でも職さえ見つかれば滞在しようと考えていたのだが、そう簡単に職は見つからなかった。明治生まれの親の顔を思い出し、自分の言ったことに責任を持たなきゃいけないと言い聞かせ続けた。
しかしスウェーデンでの3日間を通して結局何も見つけることができなかった。ストックホルム大学の前を通りすがりにこの大学で学べたらなあなどと白日夢を見た。
この時私はなぜか動物本能的にスウェーデン人は冷たいと感じた。このことは社会福祉国家とは何の関係もないことかも知れない。後にデンマークから研修でスウェーデンに入り、スウェーデン人は冷たいのではなく何ごともフォーマルなことを好む人類であることを知った。同じ北欧の社会福祉国家デンマークとの違いがそのときは何であったのか分からなかったのである。
・1967年4月29日、ついにデンマークに入った
−3日間で仕事を見つけよう、私は焦った−
1967年4月29日、ストックホルムからの夜行列車は早朝ハムレットのモデル城のあるヘルシンガーに到着した。今からちょうど34年前になる。もはや生か死かなんて言っていられない心境だった。ずばり背水の陣で私はデンマークに乗り込んできたのだ。
日本出発の時、北欧を目指したが私の胸の中にはいつもデンマークがあったのだ。見知らぬものへの一目惚れである。酪農国、アンデルセン、デンマーク体操等以前からデンマークと関連して聞いていた言葉はこれくらいなもので私が知りたいと焦がれた社会福祉国家についての情報は何もなくその本家に来てしまったのだ。
ヘルシンガーからコペンハーゲンに向かう列車の窓に私は吸い付くようにして惚れて目指してきたその国を見ていた。地平線まで広がる緑に点在する赤や黄色のレンガ造りの家、澄み切った青空、これぞお伽の国と思わず思った。
しかし、コペンハーゲン中央駅に列車が到着するや私の背水の陣の闘いは現実となって始まった。列車のコンパートメントで一緒だったインド人でサンスクリット語の教授が予約してあるホテルがどこかわからないという。私も初めて着いたばかりのコペンハーゲンであったが、自分のリュックサックを駅のベンチに置いて彼のホテルを探してやった。幸い、ホテルは駅のすぐ前だったので時間も取らず、ベンチに置いた荷物も私の帰りを待っていてくれた。ホテルに泊まれる教授を羨ましく思ったものである。
今日から3日間のうちに仕事を見つけないことには一巻の終わりだ。そう思ったとき、試験のとき問題が解けず残り時間がもう無くてどうしたいいのか分からないときと同じような心理的肉体的危機感みたいなものが身体中を電流のように駆け巡った。
まずはユースホステルを地図上で探した。当時コペンハーゲンに在った路面電車の2番に乗って宿につき、そのまま職探しのため街に出た。犬でさえ歩けば棒に当たるというのに、何も得ることもないままに、デンマーク第一日目の草鞋を夕方脱いだ。
2日目もただ街中を歩き続けた。棚からぼた餅なんて落ちてこないということが良く分かった一日だった。ユースホステルでの朝食以外はすべて外食、大きな食パンを買い、イワシの缶詰めを見つけておかずとし、何となく恥ずかしかったので公園のなるべく隅のベンチに座って食べた。これではレストランの皿洗いの仕事にありつけないわけである。あと一日しかない、とても眠れぬ夜のはずであったのに、昼の疲れがしいた眠り、私の悩みを一時忘却させてくれた。
ついに3日目。潜在意識の中に在る危機感が目覚まし時計よりも先に私を叩き起こした。今日が最後だ。誰だ、祈らずとても神は守らんなんて言ったのは。神様に対して失礼だけど、いらっしゃるのなら祈りたい気持ちの私だった。