velkommen til


・犬も歩けばキャンプ場に当たる

 犬も歩けば棒に当たる。とにかく歩こう。しかし犬死にだけはしないぞと覚悟を決めて滞在3日のユースホステルを後にした。右、左と現れてくるレストランの看板には見向きもしなかった。私の足は市の郊外へと向かっていった。
 コペンハーゲン中央駅から西へ約17キロくらい歩いたところで町並みが切れ、緑が広がってきた。そうだ、自分は農家を探しているんだと気付いた。農家へ行けば食べ物は絶対ある。寝るところだって最悪の場合は畜舎か納屋があるはずだと考えながら旧国道を歩き続けていた私の目に、ふっと飛び込んできた光景は、私が日本で見たことのないものであった。
 キャンプ場である。もちろん、日本にもキャンプ場があるのは知っていたが、違いが大きい。入り口には軍隊の基地のようなゲートがあり、遮断機で閉鎖されていた。金網から中をのぞくと一人の男が動き回っていた。農家を見つける前にここにキャンプしようととっさに思い付いて中の男に声をかけた。私が日本から背負ってきたリュックサックの中には小さな野宿用のテントが入っていたから、ここにおいてもらえば、まず住むところができると思ったのだ。
 金網ごしに、
 「HALLO!もしもし、キャンプさせて欲しいんだが?」と私は叫んだ。
 「だめだネ、ここは5月10日からしか開かないんだ」と素っ気ない。ここで引き下がっては本当に今日から寝るところがない。私は必死になってもう一度叫んだ。
 「おじさん忙しそうだから仕事手伝うよ!」
 「手伝う?」
 興味を持ったらしいので、もう一押し。
 「Yes,butお金はいらないよ!」
とだめ押し。
 「そうか、本当にお金はいらないのか?」
 とにかく寝るところを確保したいので、
 「いらない、置いてさえくれたら仕事たくさん手伝うよ」
 私をじろりと見据えて、
 「お前、何人(なにじん)だ?」
 「日本人だ」
 「よし、来ていいぞ」
 この答えを聞いたとき、”叩けば開かれる”だとまさに思ったものだ。
 心にちょっと余裕ができた。今度は何とユースホステルまでの帰りを歩かなかった。バスに乗って帰り、テントの入ったリュックを背負ってキャンプ場に戻ったのである。

・次はお金を稼がなきゃ   −「衣食足って礼節を知る」− 

さあ、まずは寝るところが決まった。次は何とかしてお金を稼がなきゃ。この問題がすぐに頭にもたげて来た。日本から最大限持ち出せたのは500ドル。そのお金はこの時点ですでに400ドルを切っていたのだ。何とかして食い扶持を稼がなきゃいけないと、ひたすら思った。社会福祉どころか自分の生活を保障するのに精一杯なのだ。
 今になって思い当たることなのだが、自分の生活に必死の時は他人の生活なんて考えるゆとりがない。生きていくことで精一杯なのだ。経済大国になった日本は戦後生き延びるために頑張って来た。私にしても当時。自分のことで精一杯。他人のために学校を作ってなんていうことは、この時、ひとかけらも思っていなかった。
 日本は戦後必死になって国民が生きるために働き、その努力が実って豊かになった。しかし、その必死になっている時点で、私達は何かを忘れて来てしまったのである。福祉に目を向ける余裕が無かったのである。
 「衣食足って礼節を知る」
 物理的に豊かになったら思いやりも豊かになる余裕があって然るべきだ。今、私達はひもじい思いをしなくて済む時代に生きている。だったら今こそ自分の生活、障害者の生活、老人の生活を考えなければいけないのだ。

・「お前は何しにデンマークに来たんだ?」

 キャンプ場での最初の一週間。私はキャンプ場開場のための準備作業に明け暮れた。住むところが出来たので、主(親父)の命令通り、何でもやった。花壇を作るため土を掘っていたら、でかいミミズがいたのにいたく感心したことを今でも覚えている。馬鹿な話であるがデンマークにもミミズがいるんだということである。
 シーズンになってキャンプが開場すると大きなキャンピングカーを牽引した車が続々と入って来て、私の登山用のテントは瞬く間に彼らの谷間に隠れてしまった。
 彼らはただ余暇を過ごすためばかりでなく、コペンハーゲンへ通勤するためにキャンプ場に住んでいるのであった。当然トイレ、シャワールームの清掃も私の日課の一つだったが、そこでもう一つ知ったのは西洋人は起きてからシャワーを浴びることだった。私達日本人には寝る前にお風呂に入る習慣がある。要するに身体を浄めるのは事の前か事の後かの違いかなあなどとまた感心したのであった。
 ある朝のこと。
 「お前生きているか?」
と誰かがテントの外で寝ている私に問いかけた。聞き覚えのない声の主に私は問い返した。
 「生きているけど何でそんなことを聞くんだ?一体お前は誰だ」
 「おれは親父の息子で軍隊に入っているんだが休暇で帰って来たんだ。今朝は気温が零下10度以下に下がったんで、親父がちんこいテントに寝ているお前がどうしているか見てこいと言ったんだ。生きているんなら朝飯を食いに来いと親父が言ってるよ」
 何と5月の中旬でも零下になるとは。さすがに北欧だ。私は登山用テントの中で寝袋を持っていなかったのでジャンパーを着ただけで寝ていたのだ。朝食に呼ばれて食べていると、親父が私に聞いた。
 「お前は一体何しにデンマークに来たんだ?」
 社会福祉を勉強に来たとはなぜか答えられなかった。そんなことよりも食い物を確保しなければならなかった。
 「貴国の有名な農業を学びたいと思っている」
 農家だったら食い物と住むところがあるとにらんだからだ。
 「何だ。農業か。俺の旧友が農家のアドバイザーをしているから、彼に農家を探してもらおうか?」
 何と親父は王立農科大学を卒業していたのだった。
 その1週間後に親父から紹介されたアドバイザーに連れられてコペンハーゲン郊外の農家を見にいった。私は、最初に訪ねた農家でもうここでいいと決めてしまった。アドバイザーはもっと他の農家をみてから決めろと勧めてくれたのが、私にしてみれば、食い物と寝るところが手っ取り早く欲しかったのである。この時にしても、金はいらない、食い物と寝る部屋さえあればいい、と今から思うと自分を安売りしていたようだ。
 とにかく、明日から来ると約束して農家を辞してキャンプ場に戻り、親父におかげで農家に住み込むことが出来たと礼を言った。その夜はものすごく満足した気分で小さいテントの中での最後の眠りに陥ったのである。

・農家に住み込んだ

 翌日、全財産をリュックサックに詰め込んで、夕刻その農家に赴いた。その農家は農場主、奥さん、長女(8歳)、長男(5歳)、次男(8ヶ月)という家族構成。でも誰ひとりとして英語を喋らないのだ。
 私が着いたその日の夕、コーヒーとケーキをテーブルにして家族全員で大きな好奇心を持って私を待っていてくれた。私にとってはコーヒーどころか、どこに寝て、何時に起きて、どんな仕事をするのかを聞きたくてもじもじ身もだえしたのだった。言葉が通じない歯がゆさは今でも忘れることが出来ない。
 当時、英語とデンマーク語の辞書はあったが、日本語とデンマーク語の辞書は無かった。私は自分の聞きたいことを一つ一つ英語の単語からデンマーク語の単語に直し、発音が出来なかったのでそれを紙に書いて農場主のポールに見せた。彼はデンマーク語でペラペラと答える。けれども私は「??????!」。何を言われても皆目(かいもく)わからなかったので身ぶり手ぶりで想像して理解するよりほかは無かった。
 「明日の朝何時に仕事開始か?」
 一番気になることであったので紙と鉛筆を差し出すと、
 「6:30」と書いてくれたので納得した。

・赤いチューリップを忘れず

 私の部屋は農場の小作人用の屋根裏にある部屋だった。ベッドと机と椅子だけの部屋だが、机の上に農場主の奥さんのマリアが活けてくれたのだろうか、真っ赤なチューリップが一輪活けられていた。今でもあのチューリップの鮮やかさは脳裏に焼き付いている。
 6時半から初仕事ということが頭に入り込んでいて目覚ましを6時にかけておいたのだが、5時ごろから目が覚めてしまった。どんな仕事をするんだろう?緊張と不安が胸をついた。しかしやらなきゃ!と定刻に階下に下りていくと、ポールがつなぎを着ていて、私にも「つなぎを着ろ」(多分そう言ったのだと思う)と渡してくれた。
 「後について来い」
という(以下全て想像によるデンマーク語の理解)。彼に従って入って行った建物はなんと豚小屋であった。豚小屋どころか豚の大舎であった。私は生まれて初めて100頭以上の豚を一度に見て驚いたが、デンマーク生まれの豚どもも初めて見る日本人(分かったかどうか疑問だが)に驚いたのではなかろうか。
 「俺のやるのを見ていろ、その後、お前が俺のやった通りにしろ」
 初めて使う日本人使用人への命令であった。ごつごつしたデンマーク語の響きだったが、ポールの温和な顔から発せられると命令口調というより「こうしなさいよ」と優しく言っているように私には聞こえた。

・デンマークの動物はデンマーク語で鳴いた

 最初の仕事は豚どものたい肥を一輪車に山盛りに積んで舎外の蓄積場まで運び出すことであった。ポールがスイスイやって見せてくれたので、何だこんな事か、それなら自分はポールよりもたい肥を山盛りに積んで運び出してやろうと思って一輪車に満載、一歩踏み出したとたんに一輪車は横転、豚どもにブーブーとブーイングされたが豚の目は優しかった。より救われたのは雇主であるポールの「失敗は成功のもと」と笑いながら言ってくれた最初のデンマーク語のことわざであった。
 150頭分のたい肥出しが終わると各々の仕切りごと(一つの仕切りに9頭の豚が入ってる)に餌をやることになる。餌の臭いがしだすと、豚舎の中は、まるで大虐殺が行われているような悲鳴に似た叫びが飛び交った。腹減った!早く飯よこせ!と豚どもにデンマーク語で大合唱をやられると、ポールの声が全然聞き取れなくなるのだ。
 ところで豚のデンマーク語と言ったが、われわれ日本人は豚はブーブー、犬はワンワン、猫はニャーニャーと鳴くと思っている。しかし、デンマークの動物はやはりデンマーク語で鳴いていた。豚はウッフウッフ、犬はヴォアヴォア、猫はミャオミャオ。同じ人間の耳で聞くのだが、その音がデンマーク人と日本人の口から出るとき各々違うのはなぜかわからない。
 朝仕事は豚の世話、7時半朝食のために食堂に入ると長女のマーキットが顔をしかめる。
 「臭い!臭い!」
 150頭もの豚どもと1時間以上も同室していると匂いがつなぎを突き抜けて身につけている衣服までしみ込んでしまう。8歳のマーキットに顔をしかめられて寂しい思いがしたものだ。
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 この手記は月刊「権利闘争」(権利問題研究会発行)にて連載されたものです。転載の許可をいただきました関係者の方々に感謝いたします。