・もういくつ寝るとクリスマス


 12月に入ると毎日食卓にロウソクを灯すようになった。今までも客人が来た時とかパーティーのときは必ず灯していたが、なぜ毎日なのだろう?
 「もういくつ寝るとお正月、お正月には…」と同じように子供たちはクリスマスを待ち焦がれているのだ。よく見ると毎日灯すロウソクには12月1日から12月24日までの日付が刻まれていた。子供たちは毎日ロウソクが灯り、炎を見つめながらイエス様の誕生日が近付くのを待ち焦がれているのである。一年中で一番たくさんもらうクリスマスプレゼントとクリスマスのご馳走を!


・初めて迎えたデンマークのクリスマスイブ


 クリスマスイブ、子供たちが待ちに待った日である。デンマークではこの日にクリスマスプレゼントがもらえるのだ。まずご馳走だが、ダックか七面鳥の蒸し焼きが一般的である。豚の焼肉などを用意するところもある。デザートはデンマーク独特の牛乳で炊いたお粥にサクランボの薄いジャムをかけて食べる。このお粥の中にはアーモンドを細かく切って入れてあるが、一個だけ丸ごと入っている。これに当った者はアーモンドプレゼントがもらえる。日本の東北地方には、果報だんごというものがあってだんごの中に入っている端樹に当った者は果報としてプレゼントがもらえる風習とよく似ていると思った。
 ご馳走を食べ終わると、飾り付けたクリスマスツリーのまわりをクリスマスソングを歌いながら家族全員手をつないでまわる。これも一般的だが、この日は家族だけが集まる日らしい。特別なことがない限り家族以外の客人は来ない。
 私たちの知っている「清しこの夜」「ジングルベル」など数曲歌うといよいよクリスマスプレゼントの交換が始まる。ツリーの下に山と積まれたプレゼントを代わる代わる取って、ギフトカードに名前の書いてある本人に渡すのだ。子供たちはこの夜だけは眠くなるまでもらったばかりのおもちゃで遊ぶことができる。
 ホワイトクリスマスといって12月24日には雪が降ることを皆願っているのだが、最近は地球の温暖化でホワイトクリスマスを迎えたことがない。
 クリスマスイブ、クリスマスツリー、セカンドクリスマスデー。日本の正月三賀日のように飲み食いの日々が続くが、街はいたって静かで喧噪にわたる賑わいはない。


・花火があがる「新年の前夜」


 12月31日は日本では「年越し」「大晦日」というがデンマークでは「新年の前夜」という呼び方をしている。なぜか習慣的に鱈(タラ)を夕食に食べる家庭が多い。夕食後はテレビ番組に興じ、午前零時の時報を期してHappy New Year!とシャンパンで乾杯。デンマーク語でGodt Nyt A°r!そして乾杯はSka°l!(スコール)という。
 各家で打ち上げる花火が新年の夜空を赤く染める。花火は夏のものと思い込んでいる私は寒い冬の花火に最初違和感を抱いたものだ。
 1月1日の朝にかかる新年の夜は一年に一回だけ子供たちが悪さをしても許される日である。百鬼夜行、子供たちはあちこちから家をまわり、窓ガラスに練り歯磨きで落書き、置きっぱなしの自転車を見つければ何百メートルも離れた森の中に放棄し、郵便受箱にはよく爆竹が投げ込まれ、旗竿にはガラクタが掲揚されているといった具合である。


・1月1日はただの月初め。でも私には期待に満ちた新年だった


 1月1日の朝は寝正月(ねしょうがつ)で何もない日だ。ただの月の最初の日に過ぎない。日本のお正月を知っているものにはなんとも味気ない元旦だ。考えてみるとクリスマスが正月みたいな行事だった。学校や会社など早いところでは1月2日から始まるところがある。いまだお正月じゃないかと心の中で不満が爆発した。この味気ない正月も私には初めて迎えたデンマークの新年である。期待に満ちた新年であった。何よりも半年以上付き合った豚どもとお別れのできること。1月5日からI・P・C (インターナショナル・ピープルズ・カレッジ)に入学できるからだ。


・I・P・Cの日々が始まった−悲喜こもごもの六カ月−


 有り金全部をはたいての入学は心細かったが、勉強できる喜びをこれほど感じたことは日本では一度もなかった。なんとかなるさ!私は決して楽天家ではなく、むしろ心配性の人間なのだが、ケ セラ セラと黙って歌っていた。
 この年は、新年にかけて雪が結構積もった。ポール家から学校まで約50キロの道程をポールが注意深く運転してくれた。1月から学校に行くとポールに言ったとき、もう百姓はやらないのか?と言うような顔をしていたが、自分はうんとデンマークのことを知りたいので学校に行きたいんだと言ったら、ポールやマリアはわかってくれた。でも子供たちは多分に不満のようだった。遊び相手がいなくなるからだ。
 このころには「学校が休みになったらまた来るよ」これくらいのデンマーク語はしゃべれた。半年で片言の日常会話ができる程度になったわけだが、デンマークの豚どもとはパーフェクトの会話ができても人間とはなかなか難しい。
 雪道をポールの運転する車で送られてI・P・Cに着くと校長の奥さんが出迎えてくれた。校長の奥さんだということはもちろん後で知ったことだ。
 「コンニチワ、日本から来ましたチバです」
 「あら、デンマーク語上手ね、デンマーク語を話す日本人学生はあまりいないのよ、どこで覚えたの?」
 「ハイ、農家に半年住んで豚の世話をしておりました」
 全学生がそろってみると一番多いのはアメリカ人で、なんと次に多いのが日本人。野球チームを一チーム作っても余りあるくらいの数だった。ただほとんどの日本人学生が英語を話さないのには驚いた。一体何しに来たのだろう?学生委員の選挙が行われ、英語を話すということで5人の学生委員の1人にさせられてしまった。なんということはない、日本人学生の通訳兼連絡係みたいなものだった。
 学校の授業は全て英語で行われた。発展途上国問題、人文科学、世界のニュースなどの科目は興味あるものだった。行事では各国の夕べというものがあり、お国自慢を披露。日本の夕べでは切腹場面を演出。食事はすき焼き、そして盆踊りと大受けをしたことは今でも忘れない。試験がないため、皆学生は自分のためによく勉強したものだ。全寮制のため、何組かのカップルも誕生したようだった。


・無一文、でもデンマークで学びたい−「労働で学費は払う」と学校長たちに手紙を書いた−


 悲喜こもごもの六カ月を終わる頃、私には再び悩みが持ち上がった。さあ、いよいよ無一文、この先どう暮らそうか。
 そうだ!デンマークにはこの種の全寮制の学校が何十校とあるはずだ。全寮制の学校には部屋と食事があるではないか。毎週5つづつの学校長あてに手紙を書こう。
 「私は日本からデンマークの社会福祉を学びに来た者です。社会福祉を学ぶにあたり、まずはもっとデンマーク語を習得しなければならないと思いますので貴校に入学させていただけませんでしょうか?ただし、私は授業料を払えるお金を持ち合わせませんので、その分、労働することによりお支払い致したいと思います。こんな私の願いをお聞き入れ下されば幸いです」
 この5通の手紙を出してから3日後には2つの国民高等学校の校長から来ても良い旨の返事があった。私は言葉通り小躍りして喜んだ。これでまた少しデンマークに長くいられる。私は喜び勇んでフュン島にある国民高等学校に向かった。


・フュン島の国民高等学校で


 デンマークで2番目に在校することになった国民高等学校はアンデルセンの生まれたデンマーク第3の都市オーデンセから西へ約30キロの田舎にあり、学生数もわずか50人とこじんまりした学校であった。
 校長はアーナ・ヴィンターといい、にこやかに私を迎えてくれた。
 「ようこそ、本校へ。君の部屋は2階の27号室、個室にしてあげたよ」
 「はい、ありがとうございます」
 「授業だが、これが週間の時間割りだ。完全に理解できないかもしれないが、興味のある科目を受けたまえ」
 「はい、兼等させていただきます」
 私は、校長の次の言葉を期待していた。
 「君を本校に無料で入学させるから然るべき仕事をしなさい」
 しかし、この言葉は聞かれなかった。私がなすべき労働条件は申し渡されなかったのである。
 個室はもらう、授業には出られる、3食付き。私は何をして恩返しをしたら良いのだろう?校長が仕事を指示しないのなら自分で何か学校のためにすれば良いのだ。3度の食事が終わるたびに他の学生は各々の部屋に帰るのであるが、私は台所に入り、皿洗いを手伝った。街のレストランではどうしてもできなかった皿洗いだったが、学校では苦もなくできた。やはり精神的にバランスが取れたからだと思う。自分は学校で勉強しているから皿洗いができるんだということである。
 デンマーク人だけが在籍するこの学校の授業は全てデンマーク語、I・P・Cで多少デンマーク語のレベルを上げたつもりだったが、やはり難しかった。中卒程度のデンマーク語クラスの授業に入れてもらってやっとわかるくらいだ。そんなある日、校長と廊下ですれちがった。校長は手に数学の教科書を持っていた。
 「ヴィンター!その本私に見せて下さい」
 手渡された本のページをパラパラめくってみるとせいぜい二次関数くらいの内容だった。
 「この授業私に受け持たせて下さい!」
 「できるかい?」
 「はい、数学でしたら答えは決まっていますから大丈夫。できると思います」
 「それじゃあ、明日から君にやってもらおう」
 こんなやり取りのあった翌日、ヴィンター校長受け持ちの数学の時間に私が教壇に上がり、これから昨日の続きの練習問題をやりますと言ったとき、授業を受けに来た20人のデンマーク人学生たちは正真正銘狐に摘まれたような顔をした。チバが気でも狂ったかと思ったのではなかろうか?
 しかし、その日の練習問題を終えるころにはデンマーク人学生だちも何か感づいたようだ。チバは教育実習生かな?ところが、その後幾何を教え、英語を初歩クラスで教えるに至って、デンマーク人学生たちもチバは教師なんだと認識するようになってきたようである。
 傑作なのは初歩クラスの英語だ。学生が金髪のヨーロッパ人、教師は当然ながら黒髪の日本人。教師は初歩クラスの学生からさえチバの英語の発音はおかしいと指摘されるに及んで、この日本人教師は語学の基本は意思の疎通だ、お互いに理解し合うまで話し合うおとだと発音を気にせずコミュニケーションをよくやろうと切り抜けた。この学校で受け持った課目は地理、科学、物理、体育と多様であった。
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この手記は月刊「権利闘争」(権利問題研究会発行)にて連載されたものです。転載の許可をいただきました関係者の方々に感謝いたします。