・なぜか勉学の意欲が高まった

 

 コペンハーゲンの養護施設「子供の家」に一年勤務すると、デンマークに来てまる4年を過ぎたことになる。もともと勉学が好きというのではなかったが、なぜか不思議に勉強したいという気持ちが高まってきた。
 デンマークの大学には社会福祉学部などという学部はないので、とりあえずコペンハーゲン大学の社会学部に願書を出したところ、コペンハーゲン大学は定員一杯だが、オーデンセ大学ならば入れるという返事が来た。
 デンマークでは教育の場において、すべての高校、大学にも学校差がないので、オーデンセ大学に行くことを決めた。
 教育費は無料だから入学金、授業料の心配は要らないが、教材費は本人負担で生活費も当然本人負担となる。そこで私は、オーデンセ校外にある以前勤めていた国民学校のヴィンター校長に再び手紙書いた。

ヴィンター校長先生
 この度私は、オーデンセ大学センター(OUC)でソーシャルワーカー養成課程に入学を認められました。つきましては、食住を与えて頂くかわりに、授業を受け持たせて頂くということで、又お世話になりたいと厚かましくもお願いする次第です。

 手紙を出して一週間もしないうちに、ヴィンター校長から「来て良い」旨の返事が届いた。食べ物と寝るところの確保ができると、まずは一安心である。
 当時オーデンセ大学はバラックの仮校舎であった。教室に入って驚いたのは、自分が間違った教室に入ったのではと思った瞬間だった。クラスにいたのは女性ばかりだったからである。20数名のデンマーク女性に一度に見られては、日本男児といえども驚かざるを得なかった。心を落ち着けて恐る恐る一番近くの学生に聞いてみた。
 「このクラスはソーシャルワーカー過程ですか?」
 「そうよ、あなたも同じ課程なの?」
 「はいそうです。よろしく」
  女たちの視線が私のところに集中、ものすごく恥ずかしい気がしたものである。

 

・デンマーク語〜英語〜日本語と辞典引き引き勉強

 

 多々ある科目の中には社会学とか心理学といったものもあったので日本の大学で取った単位を提出して、受講を免除してもらった。
 そうでなくてもデンマーク語は大変だ。例えば宿題で次の授業までに30ページ読んできなさい、と言われると、デンマーク人にはなんでもないが、私には恐怖であった。当時デンマーク語から英語を引く、その英語の単語を理解しているときはそれで済むが、英語の意味も分からないときは、さらに英和辞典を引かなくてはならない。
 そんなわけで、免除してもらえる科目はなるべく免除してもらうようにした。また、リポート提出もどうしてもデンマーク語で表現できない時は英文でもよい、と担任から特別許可を得ることができた。このような融通が効くのも驚きであった。
 こうしてなんとか2年後にはソーシャルワーカー(福祉施設勤務職員)の資格を取得できた。といっても卒業による資格ではなく、私の場合はデンマーク県議会連合会認可の同じ資格であった。なぜなら日本で学士号を取得して、いろいろな科目が免除されたことや、施設勤務経験などが加味され、県議会連合会の資格審査委員会にかけられたわけである。なにはともあれ、日本を出て8年目で資格が取れた。

 

・失業者には、一年の失業保険と、三年の休業手当て−その間に資格取得の就学可能−

 

 現在デンマークの労働者が有する主な権利は以下のようなものである。
1、労働時間 週37時間 週休2日制
2、休暇 年5・2週間 子供が病気のため親が休む場合その第一日目は病休と認定
3、失業保険 一年間の90%(ただし、年額143、500kr(クローネ)まで)失業保険は18歳以上の者でフルタイムの労働者は一年間に、パートタイムの労働者は3年間1924時間労働し、失業保険料を払うこと
 たとえば、25歳以下の者で失業保険金をかけていない者が失業すると、休業手当を一日につき552クローネ、一週間につき2700クローネを受給できる。この額は失業保険金を受給するより多いので、掛け金をかけない若年労働者が増加している。
 なお、当然失業保険受給者は積極的に求職活動をしなければならず、6ヵ月に一度職業安定所によりチェックされる。
 一年間失業保険を受給しても仕事が見つからない場合は、さらに3年間休業手当と同額を給料として支給されながら、いろいろな職場で職業訓練を受ける。受け入れ側の職場はその給料の半額を負担する。この期間中に就職が決まれば幸いということである。また、3年の間、給料をもらいながら、何らかの資格を取れる学校で教育を受けることもできる。
 失業保険で一年、その後の職業訓練(あるいは学校)に? O年、都合失業後四年経っても就職できない場合は公的扶助として生活保護のため現金支給がなされる。以前(1970年代)は湯水のごとく条件なしで現金支給していたが、現在は自治体が指定する職場で働かねばならないことになっている。
 この自治体が指定する職場で簡単な仕事さえ出来ないとなると、早期年金受給者の判定がなされる場合がある。早期年金とは、国民年金(以前は67歳からであったが、平成11年7月1日から65歳から受給できる。)に対し、18歳以上の者が受給できる年金のことだ。

 

・失業後四年経っても職場に就けないものは「社会的障害者」

 

 早期年金はおもに、18歳以上の心身障害者に支給されているが、失業後4年経っても職場で仕事が出来ない者にも支給される。これらの者を社会的障害者と呼んでいる。
 日本からの研修生からは「デンマークは社会福祉国家だから怠け者が多くいるのではないか」と質問されることが多い。以前公的扶助を無条件に与えていた時代には、有り得ることだが、現在では是正されたといって良い。怠け者を社会的障害者と捉えただけの違いかもしれないが・・・。
 社会福祉国家デンマークの抱えている問題の一つは、麻薬中毒・アルコール中毒者たちをなんとか治療し、せめて社会的障害者までレベルアップさせること。なぜなら、例えば一人の麻薬中毒者を治療するのに2〜3年も要し、その費用も莫大で1ヵ月1人当たり日本円にして100〜150万円もかかるからだ。
 デンマーク人曰く、「デンマーク人は何人も自由を拘束されない。デンマーク人は何人も空腹のために死ぬことはない」
 ノーマリゼーション理念はバンク・ミケルセンが知的障害者の生活条件向上のために説いたものだが、現在ではあらゆる障害者にも適用されているデンマークのヒューマニゼーションであるのだ。

 

・17歳のヘレンと結婚し、一緒に日本へ

 

 資格が取れたので一区切りとして、日本に8年ぶりに帰国しようと思った。それにはもう一つの理由があった。今まで同棲していた現在の妻ヘレンを日本に連れて行きたかった。それには2つの問題を解決しなければならなかった。
 第一は、日本までの2人分の旅費を捻出しなければならなかった。
 第二は、同棲している女を日本に連れて行き、同じ屋根の下では寝られないと思ったので結婚しなければならないと思った。当時ヘレンは成人の18歳ちょっと前だったので、彼女の父親の承諾を得なければならなかった。
 第一の問題を解決するため、夏休みに二人で園芸場でアルバイトを始めた。ヘレンは雑草取り、私はキュウリもぎの仕事を1ヵ月ばかりして、日本までの2人分のソ連経由の片道切符代を稼ぎ出したのである。
 第二の問題は、ヘレンの親父さんから許可をもらって、結婚式をあげることであった。デンマークでは、教会で結婚式をすることが多いが、私はキリスト教信者ではないので、オーデンセの市役所で結婚した。ヘレンの母親は、娘のウエディングドレス姿を見たかったようで、彼女には申し訳なかったが、自分のわがままを通してしまった。結納を出すこともなく、結婚披露宴の費用はデンマークでは伝統的に新
婦側が出すことになっているので、私はただで結婚できた。
 日本に帰ってヘレンが国民高等学校の学生だというと、「千葉は高校の教師で生徒を誘惑したのだろう」とよく言われた。「冗談じゃない。見初められたのは私だ」。なにはともあれ、結婚は二人の合意の上で成立するのだ。

 

・市役所で三分間の結婚式

 

 よく日本からの研修生がヘレンに聞く。「なぜ千葉と結婚したの」。彼女は「私は黒髪と茶色の目が好きだったからよ」。なるほど、日本人が金髪に憧れるのと同じ単純なことだったのかもしれない。白髪がめっきり増えた現在はどうなのか?
 オーデンセ市役所には結婚式場があり、市長あるいは代理の者が挙式を仕切るのである。デンマークでは、どこの自治体に住んでいても、自分たちが結婚したい自治体の役場で結婚できる。結婚式は教会でも市役所でもほとんどが土曜日に行われる。
 オーデンセ市役所で私たちが結婚したときは、ほかに5組ほどあり、順番に式典?が挙行される。教会での結婚式は30分、市役所でのそれは3分といわれている。
 市役所にある式場は、小さな教室くらいの広さで、中央に祭壇?があり、その前方左右の壁側に4〜5席の椅子が置かれている。そこには付き添いの家族・友人たちが座る。
 「タダオ・チバ、あなたは死が二人を分かつまでヘレン・ヨハンセンを妻として愛していきますか?」
「ヤア」
 デンマーク語ではヤアは嫌でなく、イエスのことである。この際にノーと答える人は皆無であろう。ヘレンも同様のことを聞かれた後、結婚証明書に二人でサインをすると、全て終了である。讃美歌のない結婚式は事務的に淡々と終わる。
 披露宴はヘレンの実家で家族・友人を招いて行われたが、私の家族として養豚農家のポール夫妻やヴィンター校長夫妻が出席してくれた。友人は日本から一緒に出てきた佐々木平紀と、国民高等学校の同僚教師たちが出席してくれた。今から26年前の8月17日のことであった。
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この手記は月刊「権利闘争」(権利問題研究会発行)にて連載されたものです。転載の許可をいただきました関係者の方々に感謝いたします。