・故郷の山に向かいていうことなし
結婚して足かけ8年ぶりに帰った故郷の街の変貌ぶりには驚かされた。ヨーロッパの街並みは何年経ってもあまり大きな変化がないからだ。私が住んでいた岩手の一関市の山は幸いそのままであったが、街から家まで、かつては雨が降るとぬかるみとなった道が何と半分以上舗装されていたのである。
「故郷の山に向かいていうことなし」。兔追いし彼の山は昔のままの姿で私達を迎えてくれた。家には84歳の父が一人で住んでいた。母はと聞けば入院しているとのこと。父一人では世話もできずいわゆる社会的入院をさせていたのである。
病院の母に会いに行った。8年ぶりに会う母はベッドに横たわっていた。
「お母さん、忠夫です。デンマークから帰って来ました。これが妻のヘレンです」
軽い痴ほうが始まっていた母だったが、幸いにも私を覚えていてくれた。傍らのヘレンに目をやるものの、「誰?」と首をかしげた。外国人を息子の嫁にもらった記憶は母にはないのである。
・寝かせきり老人の母は退院1月もせずに歩けるようになった
「お母さん病気なの」
「病気じゃないよ」
「じゃ起きて歩こう!」
「歩けない」
「エッ!病気じゃないのになぜ歩けないの?」
「病院で歩かしてもらえなかったから」
「そんな馬鹿な!」
即刻退院手続きをして、母を山の家に車で連れ帰った。家で母をお風呂に入れてあげ、暖かいうちに足を揉んであげ、一歩、ニ歩と歩行訓練を開始した。効果はてき面であった。2日、3日と日増しに歩数は多くなり、杖をつくと一人でも歩けるようになったのである。退院して一月もしないうちに、私は母がかなりの距離を歩けるようにすることができた。
寝たきり老人ではなく、寝かせきり老人という表現がいかに正しいかを私は母親を通して知らされた。日本に現在いる70万人とも80万人ともいわれる寝たきり老人は、みな寝かされているといっても過言ではなかろう。
・なぜデンマークに寝かせきり老人はいないのか
デンマークには寝かせきりの老人は一人もいないのはなぜか?
デンマークでは、脳卒中などで入院治療後に退院してきたら、その老人を病人とみなしはしない。自治体の在宅介護課がリハビリと現状維持のトレーニングを理学療法士、作業療法士、ホームナース、ホームヘルパーなどを派遣してしっかりと行うからである。
日本に寝かせきり老人がたくさんいるのは、ひとえにマンパワーの不足によるというほかはない。デンマークの在宅介護を日本の家族介護と巧みにすり替えるような高齢者福祉政策を続けるようでは、今後ますます寝かせきり老人は増えるだろう。
最近私はよくデンマークの福祉関係者を日本に同行し、社会福祉セミナーを実施するのであるが、ある日、ある県の特別養護老人ホームを見学したとき、同行したデンマークの理学療法士は目に涙を浮かべ私に訴えた。
「チバ、どうして日本ではリハを続けないの?老人がかわいそうよ!」
日本のハイテクに目を見張る一方で、福祉の貧困さに眉をひそめるのであった。
師匠のバンクミケルセンは、かつてアメリカで障害者施設を視察した後言った。
「一室に4人(匹)も6人も住んでいるのはデンマークでは牛や豚だけだ」
これを記者から聞いた当時のカリフォルニア州知事レーガンは激怒したそうだ。
私も師匠のバンクミケルセンに見習うわけではないのだが、日本からの研修生とこんなやりとりをした。
「この特養臭いが全然しませんね!」
「デンマークでは人の住んでいるところは臭いません。臭うところは畜舎だけです」
・郷里と老父母同居で新婚生活がはじまった
郷里で老父母と新婚?の二世帯家族生活が始まった。私は父が退官後開拓した自然公園の山の手入れをした。妻のヘレンは、味噌汁、漬け物、納豆、ご飯炊きと3度の食事作りにくわえて、時には母の下の世話もしてくれた。この日本滞在中、なんら収入源のない私たちに、今まで母を社会的入院させていた兄や妹たちが生活費を貢いでくれたのである。近所の人たちも外国人の妻がアンコ餅が好きだと聞くとアンコ餅を、ズンダ餅(東北特有の枝豆を潰して作ったアンコ)が好きだと聞くとズンダ餅を都度差し入れてくれた。
東北は風呂場が孤立して母屋の外に建てられていることが多い。我が家は古い農家ではなかったが、風呂場は別の建物にあったので、私は寒い冬、母や父を寒気に当てるのは良くないと判断した。現存の建物のそばに風呂場を造ろうと思い立ち、建材店から資材を買い、鉄筋ブロックの風呂場造りを妻と始めた。見よう見まねで何とか出来上がったのだが、屋根を葺く段階になって困ってしまった。お手上げ状態だったのである。
そんなある日、中学校のころには出来が悪くて高校に行けなかった小学校のころの同級生が、近所に住んでいる屋根葺き職人になって近所に住んでいて、実に見事に屋根を掛けてくれたのであった。
私はこのときほど、自分がいかに愚かであったかを思い知ったことはない。かつて、高校に行けない者が就職するんだと思い込んでいた自分だったが、高校に行けた私が出来ないことを中卒の彼は見事にやってのけたのである。
脱帽!学歴社会って何なんだ?デンマークの哲学者キルケゴールが唱える実践主義、人間何ができるかが勝負ではないか。猫も杓子も行く高校、大学の無価値を旧友を通して痛感したものであった。
・85歳の父がデンマーク研修に参加した!
当時私は東北福祉大学の夏季セミナーを毎年実施していた。私たちが日本滞在中も実施することになっていたのでその作業を進めていると、85歳になった父が自分もその研修に参加したいと言い出した。
明治生まれの父が今度は自分で無鉄砲を言い出したのである。兄弟姉妹はみな、父がデンマークに行くことを反対した。もし万一のことが起こったらと。
「万が一のことが起こったら本望である」
これには兄弟姉妹、誰も反論することができず、父のデンマーク研修は実現したのであった。
父にはもう一つの目的があった。自分の息子と結婚したデンマークの娘さんの両親にご挨拶したいということだった。父は東北福祉大学の学生とともに短期研修を無事に終え、妻の両親とも挨拶を交わし、大満足で帰国した。
父が短期研修中気がついた大事なことが一つあった。
「なぜデンマークには腰の曲がった老人がいない?」
デンマークは酪農王国でもあり、乳製品がふんだんにあるので子供のころから牛乳、チーズの摂取量が多いのでカルシウムを充分吸収しているからだと理解したようだ。
毎朝散歩に出かけた父は道で出会うデンマーク人がみな「グッモーン!」と声をかけてくれたと驚いていた。長いこと滞在していると当たり前なことであるのでなるほどと思ったものである。朱に交われば赤くなる。自分はいつも日本人と思って考え、行動しているつもりだが何かが変わっていくようである。
・再びデンマークへ−母の心はわが胸に住む−
デンマークの社会をより深く学び、母国のために役立ちたいと念じて帰国してから一年半が経ち、老父母と生活した故郷を離れた。痴ほう性の進んだ母には「街に買い物に行ってくる」と言って別れたが、これが生きている母への最後の言葉になってしまった。母は歌を好む人であったので私が初めて国を出るとき詠んでくれた歌を今でも私は覚えている。
「無事祈る母の心は汝が胸に何時も住めるを常に忘るな」
「目的を果たして帰る其の日まで老父母も頑張りて待つ」
「車窓より射る如き瞳吾が胸に焼きつけゆきし吾が子はデンマークへ」
・保育園・幼稚園を統合した施設に勤務した−遊びを通して人づくりを−
再びデンマークに戻った私がまず最初に勤務したところはコペンハーゲン郊外にある保育園と幼稚園を統合した施設であった。内部の部屋は保育園児部門と幼稚園児部門とに分かれている。しかし、各々の部屋を出るとどちらの子供たちも一緒になり、ごちゃ混ぜになってしまう仕組みだ。
デンマークにおいては大体、保育園はゼロ歳から三歳まで、幼稚園は三歳から六歳までとなっており、六歳から七歳までの子供は国民学校に付属する幼稚園クラスに通う。
現在では、大部分の施設が保育園と幼稚園を統合している。施設には時間割りのようなものが無く、毎日の時間が成りゆきに任せて流れ、特にその日の天候にあわせて日課が組まれているようだ。おおよそ時間の流れを記しておこう。
6時〜8時
出勤する親に連れられて子供たちが集まる。朝食を食べていない子には朝食を与える以外は自由に遊ばせる。
9時〜10時
全員集まったところで歌を歌い、天候を見合わせてその日何をやりたいかを子供たちと決める。
12時〜13時
保育園児は全員お昼寝用の箱に入ったベッドで寝るのだが、悪天候と厳寒(零下10度くらい)以外の日は必ず屋外で昼寝させる。
デンマーク人があまり風邪を引かないのは小さい時からよく外気にあたって育つからではなかろうか。
幼稚園児でもお昼寝したい者は昼寝をするが、大体は屋外で遊ばせるか散歩に出かける。天気さえ良ければ努めて屋外に出して自由に遊ばせているのだ。
13時〜14時
各々グループで絵を描いたり、工作、音楽、読書、ダンスなどさまざまな活動が行われる。
14時〜15時
午後のおやつ。果物が出ることが多い。このおやつを食べているころからポツポツと子供たちを親が迎えに来る。職員は子供たちの送迎時に子供たちの親とよく情報を交換し合う。
15時〜17時
残った子供たちは親が迎えに来るまで自由に遊ぶ。
要するに就学前教育の場は今まで家庭にいた子供が初めて接する社会である。それゆえ、早く社会の一員となる一番良い方法は遊びである。遊びを通して色々なことを教えることができる。すなわち、民主主義の個人の自由と責任、社会における連帯、共生、責任といったものを遊びから教えるのである。