・「チバ、10万円で遊び場を作り替えて」

 

 私が知的障害児の施設に勤務していた1970年代の後半は、障害者関係の施設はすべて国立であった。デンマークで施設の地方分権が実施されたのは1980年から1985年の間で、以前国の管理下にあった施設がすべて県の管轄になったのである。現在デンマークは世界で一番地方分権の進んだ国であると言われているが、当時私は国立施設で勤務していても、その土台になるような職場の雰囲気は十分感じ取れた。職場の上司は仕事の指示をすると、あとは職員の好きなようにさせてくれる。たとえば、施設長は私に、園の遊び場は10年以上古いからと「10万円の予算内で遊び場をチバが好きなように作り替えても良い」とあっさりいうので最初は半信半疑であったものだ。
 「勝手に作り替えて良いのですか?」
 「ああいいよ。子供たちが喜ぶようなものを作ってくれ」
 当然大体の案を図形で示し、一応許可をもらうわけだが、こちらの方はあまり重視していない。職員を信用して予算も付けて仕事を任すという分権政策の基本を感じたものだ。

 

・施設ごとに予算執行を任される。余れば次年度に繰り越す

 

 現在デンマークでは保育園、幼稚園、学校、障害者施設、特別養護老人ホームなど、すべて各自治体の管轄下にあるが、運営は年間予算付きでそれぞれの施設の理事会に任され、施設長が運営の実施の責任者となる。このように予算付きで権限を任されると経済効率も大変よくなる結果となった。各施設は任された予算内で節約し、会計年度末に予算が余ると次期会計年度に繰り越してもよいことになっているので、年度末の空出張や無駄な買い物をすることもない。

 

・自分が作ったブランコで子供がケガ

 

 遊び場作りを任されていろいろなものを作った。しかし自分が作ったブランコで事故を起こしてしまった。大型トラクターのタイヤをチェーンで吊って子供たちが数人乗れるブランコを作った。そのブランコに子供たちと一緒に乗っていたとき、一人の女の子がピョンと飛び降りてしまい、振り子のように戻ってきたブランコがその女の子の足を直撃してしまった。私は他の子供たちと反対側に乗っていたので、女の子が飛び降りるのを防ぐことができなかった。急いでブランコを止め、女の子のそばに行くと明らかに骨折していた。
 私は事務所に飛び込み、救急車を呼んだ。救急隊員が駆けつけるまで女の子のそばにつき、動かないようにさせた。この女の子は絶えずピョコピョコ動きまわる子で、一時たりともジッとしていない子だからである。女の子が救急車で運ばれた後、私は施設長に事故の報告をした。子供に申し訳ない、子供の親に申し訳ない、施設長に申し訳ない、首を覚悟での事故報告をしたが、施設長は「これは不可抗力の事故で、チバに個人的責任はない」と言ったのだが、私は女の子の親に会わす顔がないと心痛であった。入院先の病院で親御さんに自分の不注意でお子さんにけがをさせてしまったことを詫びた。親御さんからさぞ叱責させるだろうことを覚悟していた。すると、「チバが悪いのではない。うちの娘が勝手に飛び降りたのが悪いんだよ。そんなに気にしなくてもいいよ」と親御さんが言ってくれた。この言葉を聞いたとき、もしこれが日本で起こした事故であったら、どんなに個人責任を追及されるだろうか、と考えた。デンマークでは職場で起きた不可抗力の事故に対して個人的にそして社会的に責任を負わさないことを知ったのである。

 

・生後3ヵ月の我が子の洗礼に反対

 

 当時の私たちの生活パターンは、私が職場から帰ると、妻は近所の病院にパートタイムの働きに出た。ようするに長男を代わりばんこに面倒を見たのである。2年後の1978年に長女が誕生した。息子も娘もデンマークと日本のどちらも通用する名前をと考え、「KEN、健」と「JUN、純」と名づけた。90%ものデンマーク人が属する国教がプロテスタントのルーテル派であるので、デンマーク人の子供は普通生後3ヵ月以内に洗礼を受ける習慣があるが、私たちの子供たちはいずれも洗礼を受けていない。妻は子供たちに洗礼を受けさせたかったかもしれないが、生後3ヵ月くらいで宗教のことも何も知らない者に洗礼を受けさせるのに私が反対したからである。子供たちが大きくなって自ら宗教を選ぶのであれば私は反対しない。

 

・お金が動機で非行少年施設に応募

 
 知的障害児の入所施設で3年勤めると、この分野の福祉政策が大体把握できた。子供も二人となり、アパートの狭さを感じ始めてきたのもこの頃だったので、日曜日になると新聞を買い求め、何かめぼしい仕事はないかと求人欄を注意深く見るようにした。すると県立教護院で主任生活指導員を募集しているのが目に付いた。
 「非行青少年教護施設主任生活指導員を求む。ソーシャルワーカー有資格者、30才以上社会福祉施設勤務経験3年以上。給与、月額15000kr(クローネ)」
 一番魅力を感じたのは給料であった。当時1krは25円くらいだったので、これだけもらえばローンをしても家が買えると思ったからだ。しかし、職務内容からして難しそうだし、経験もあまりないし、まして私は外国人だからダメだろうと最初からあきらめ、ささやかな望みを託し、必要書類を付けて願書を出したのだ。
 すると、案に反して、「X月X日面接するので出頭すること」と手紙が送られてきた。うれしい気持ちはもちろんあったが、困ったという気持ちの方も大きかった。未知の世界の未知の仕事が不安だったからである。しかし、面接日を通知してきたからには相手も私に多少は興味を持ったのであろうと理解し、採用されなくてもともとと面接試験に出かけていった。この教護院の新職員採用委員会は所長、生活指導員寮長、生活指導員、そして嫌だなあと思った職員が一人いた。その職員は教護院の臨床心理判定員だったからで、私は彼になんでも心のうちを見抜かれてしまうという恐怖感を持ったのだった。

 

・「非行少年に武士道を」と面接で答える

 

 「貴兄はなぜこの職を希望したのか?」
 「非行青少年を更正させたいと思っているからです」
 「どんな生活指導をして更正させるのですか?」
 「柔道を教えます」
 「暴力沙汰を起こしている者が多い彼らに柔道を教える?」
 「はい。暴力を教えるのではなく武士道を教えるのです」
 「武士道?」
 「彼らは自分が弱いから暴力を振るうのです。彼らを鍛えて強くすれば(健全な肉体に健全な精神が宿る)とデンマーク語でも諺があります」
 「貴兄のデンマーク語のアクセントで少年たちが分からなかったらどうする?」
 「分かるまで何度でも繰り返して話します」
 「彼らはイライラするがどうする?」
 「話し続けるより他ありません。彼らが分かってくれるまで」 約1時間くらいの間にこのような質問のほかに、日本で何をしていたかとか、何のためにデンマークに来たのかなどといろいろ聞かれた。もうこれは駄目だと思ったから聞かれもしないのに「この仕事に就ければ家が買えると思って」と言って退いたら気分もスッキリした。また、週末に新聞を買おう。家に帰ると2才と1才の子供が所狭しと遊びまわっていた。
 「どうだった?」と妻。
 「また新聞買うよ」
 「そォゥ」
 会話は続かなかった。
 35才を過ぎてもいまだに家も買えないと情けない気もしたが、これだけは自分で決めるわけにはいかないのだから仕様が無い。今の職場には他の職場の試験を受けたことは当然秘密であるので、いつもの通り勤務を続けていたら所長に呼ばれた。
 「残念ながらおめでとう」
 「はーァ???なんのことでしょうか」
 「秘密にしなくてもいいんだ、教護院の所長から君のことを聞かれて私なりの意見を言っておいたのだ」
 しまった!と狼狽したが、「うちの施設としては君に去られるのは残念だが君の将来にとっては良いことだ。行きたまえ」
 私はなんて良いデンマーク人ばかり会うのだろうと感動した。
 家に帰って、「先週の新聞は?」
 「求人欄はないわよ」
 「いや、求人欄ではなくて、土地家屋事情の欄があればいい」
 「ン?」
 「家を買おう!」
 「えェー、お金もないのに…」
 この日の夕食は「お頭付き」。ヘルシンガーの町は魚も新鮮、安いワインを飲みながらの夕食を二人の幼子たちはなぜか知る由もなかった。肉よりも高い魚やご飯をぼろぼろこぼしながら美味しそうに食べていた。

 

・念願の家を買う。1000平方メートルの土地に135平方メートルの平屋

 

 今の職場の同僚たちからも祝福されながら、最後の一カ月を申し送り事項を整理するのに費やした。足を折った女の子の親も含め、子供たちの親からも惜しまれて辞めて行く自分を知るときはうれしいような寂しいような複雑な気持であった。引越しまで一カ月、「蚤の市」で買った鍋、釜、家財道具の梱包が始まった。子供たちはなぜいろいろなものが梱包されていくのか、ときには自分たちのおもちゃまでもが梱包されてしまうので不安げな顔をしていた。引っ越す前に買う家を下見し書類をそろえた。敷金は銀行がこれから私が得る給料を確認して貸してくれた。もちろん連帯保証人が2人必要であったが、一人は妻の父、そしてもう一人は養豚農家の農場主のポールが引き受けてくれた。二人とも銀行と同様に私の給料を知っているのでこころよく保証人になってくれた。初めて買う住宅は1000平方メートルの敷地に建てられた135平方メートルの平屋であった。ローンで買うと直接税の課税率が低くなる特典があることも知った。
戻る 一覧へ 次へ
この手記は月刊「権利闘争」(権利問題研究会発行)にて連載されたものです。転載の許可をいただきました関係者の方々に感謝いたします。