・日本人の生徒たち、最大限の自由を謳歌−結果は食事抜きのハメに−

 

 学園での生活はデンマーク人の生徒たちとまったく同じように「責任ある自由」をモットーに最大限の自由を与え、責任と義務を果たすよう試みた。幕を開けてみると、なんと日本人の生徒達は最大限の自由はこちらが与えなくても十分に日本で習得?していたのであった。
 夜遅くまでテレビを見たり、おしゃべりするのは本当に「朝飯前」のことで、最初の日の7時半の朝食には日本の生徒たちは誰一人として起きて来なかった。彼らにいかに「自由」と「責任」を関連づけて身につけさせるかが大きな課題であった。最初の日は私が起こしに行かないでデンマークの生徒たちに起こさせた。しかし結果は惨澹たるものであった。後で聞くとなんと朝5時過ぎまでビデオを見ていたらしい。さすがのデンマークの若者たちも、これだけ自由を謳歌?する日本の生徒たちには呆れ返っていたが、これは逆にデンマークの若者により自信を与え、その後のトラブルスクールを実施中の私のよき助手となってくれたのである。
 起きて来ないので自分で起きてくるまでほっておくことにした。午後3時ごろになってボツボツ起きて来て、「腹減ったけど飯ないの〜?」。私は無視した。
 夕食まではまだ3時間もあるが、その間全員になにも食べ物は与えないことにした。これは決して罰ではなくて自分で取った行動によって起きる結果は自分で責任を取ってもらうということに過ぎない。食事時間は朝食午前7時半、昼食正午、夕食午後6時と事前に知らせてあり、その時間に食堂に来れば食事は用意されているのだ。
 「ここでは飯食わせてくれねえの〜?」
 「食事の時間に来ればご飯はあるよ」
 「寝過ごしてしまったんだよな」
 「どうして」
 「ビデオ見てたんす」
 「面白かった?」
 「ウン、何か食うものないんスか?」
 「夕食までないよ」
 「そんな待てねぇヨ」
 「それならこれからは食事の時間に来ればいい」と無視。
 しかし、その日の夕食後もまたまたテレビ室で騒いでいた。今晩もビデオ見ようなどと言っているのである。若者には少なくとも8時間の睡眠が必要だから、
 「午後11時以降はテレビを見てはいけない」と私。
 「えエ〜、何時までも見ていいって言ったじゃないスか?」
 「確かに言った。それは翌日ちゃんと起きる者だけだ。あなたたちは誰一人として今朝起きて来なかった。自由だけで責任を果たさなかった。だからその責任を今から果たしてもらう」
 不満たらたらで部屋に帰って行ったが部屋でトランプやろうとか何とか言っているのが聞こえた。

 

・食事当番、仲間に言われてシブシブ作る−やっと身についた「自分の飯は自分で作る」−

 

 なんとか定時に食事を食べさせようとして考えた次の課題は、自分たちで食事を作らせることである。毎日4人(日本人3人、デンマーク人1人)を食事当番にして食べたいものを彼らに決めさせ、材料も自分たちで買いに行くようにと決めた。この日からしばらくの間、私たちは夕食を定刻午後6時には食べられなくなってしまった。
 食事当番が決まっていても生徒たちはなかなか行動を起こさないのだ。
「腹減ったヨ〜」の声が何度となく聞こえるが無視。私たちだって腹が減っているんだ。しかし腹が減っている生徒たちをさておいて職員だけが何か食うわけにはいかないのだ。生徒たちが騒ぎはじめた
 「オイ、今日の飯作りは誰だヨウ!」
 「おまえとおまえか!早く作れヨウ!」
 デンマーク人の生徒は早く作りたくてやきもきしているが、私からの指示で一人でやるなと言われているため、ふくれっ面をして日本人の出方を待つのみであった。仲間から早く作れと言われると職員から言われるより数倍の説得力があるのだ。仲間はずれにされるのが恐いからだ。だらだらしながらも食事が何とかでき上がり夕食にありつけるわけである。
 過保護に育ってきた日本の若者にとって飯作りなどは思ってもいなかったようである。しかし、自分たちで作らないと食えないことを身につけさせることが出来た。私にとってはさっさと作ってやれば時間も無駄にならずに楽なのだが、それでは過保護と同じことで進歩がない。

 

・25人乗りバスで1カ月のヨーロッパ旅行に出発

 

 最初の1週間、生活訓練をしながら来るべき1カ月のヨーロッパ旅行の計画を皆で建てた。行きたい国、行きたい都市を挙げ、地図上で距離を測り、一日最大でも700・〜800・走行するとして、1カ月での訪問可能な国や都市を決めた。出発前には4人1組となり、1組に6人収容できるテントの設営、撤収の練習も何度かさせ。
 25人乗りのバスを借り、運転手は私と佐々木が交代で、ナビゲーターは生徒たちが交代ですることにした。ナビゲーターはその日の目的地までしっかりと道路標識をみて運転手に知らせるよう指示した。もちろん佐々木と私は彼らに頼って運転したらとんでもないところに行ってしまうのは十分承知してのことである。
 さて、この1カ月のトラブルスクールの旅行先はデンマークをスタートして戻るまで訪ねた国は順番にドイツ、オランダ、ルクセンブルク、フランス、モナコ、イタリア、バチカン、オーストリア、リヒテンシュタイン、スイス、(ドイツ)。通過あるいは休憩した都市は30数都市以上
 25人乗りバスの後部座席にはキャンプ用器材(テント、スリーピングバック、炊事用具、食器、食料品など)を積み込み、前の座席には日本の生徒が女4人、男3人、デンマークの生徒が女1人、男4人で計12人、スタッフは穂積さん、佐々木、私の3人、それに当時小学校5年生であった佐々木の次女エミが乗った。

 

・「国連青年の年」を理由にバスの修理代は無料に−メンツ重んじたベンツの修理工場−

 

 1985年7月5日ボーゲンセ出発の朝は快適であった。私たちの気持ちもかなりウキウキしていた。少なからず生活訓練が身に付いてきたので、この1カ月の旅行でしっかりと日本の生徒たちに自信を付けさせられるという大きな期待に私自身いたく燃えていた。確かこの年は「国連青年の年」だったはずである。
 ボーゲンセを定刻の朝8時に出発、順調に南下し、ドイツの国境を無事通過、日本、デンマークの生徒たちもバスの中で仲良くしているし、至って問題のない旅行になると思っていた矢先、車の調子がおかしくなってしまった。クラッチが切れなくなって変速不能になってしまった。アウトバーンから出てのろのろと走行し、探し当てた最寄りのベンツの修理工場に入った。予約無しの来客に修理工は困った顔をしたが、こちらはもっと困った顔をし、旅行事情を説明し、すぐ修理しほしいと頼み込んだ。なかなか「ヤー」と言わない。そこで私は言ったものだ。「このバスはメルセデスベンツ会社製で信頼できる車だから使っている。なんとか頼む」
 修理工は工場長のところへお伺いを立てに行ったらしい。しばらくするとカイゼルひげをはやした恰幅のいい紳士が出てきた。
 「我々は国際青年年に協賛し、デンマークからヨーロッパをGOOD WILLするため一周する予定である。しかるにこの世界的に有名なメルセデスベンツが初日に故障してしまった。なんとか直ちに修理してもらえないだろうか?」
とドイツ語があまりできないので英語で丁重に訴えた。工場長はチラッとバスの中に乗っている不安顔の若者たちを見回してから
 「よろしい、直ちに修理するからあの若者たちを降ろしてくれ」
 すぐ修理にかかってくれた喜びと安堵感は私を落ち着かせてくれたが、修理代が心配になってきた。2時間半ばかりして工場長が出てきた。
 「OK、修理した。無事な旅行を祈るよ!」
 「えッ?それで修理代はいかほどで…?」
 「いらん、ベンツが持つ!任務を遂行してくれたまえ」
 やはりベンツでなくてメンツがあったんだ。
 「フィーレン ダンケ!!」を3回ほど繰り返して述べ、感謝の気持ち一杯を胸に修理工場を出て、アウトバーンに入りアムステルダムを目指した。
 約200・から250・走行したら休憩し、運転手とナビゲーターはそれぞれ交代することにした。走行中起きているのは運転している者くらいで、生徒たちは死んで積み込まれたマグロの如く眠りこけていた。今まで見たこともない外国の景色を堪能したらよかろうにと思うのだが、あまり興味はないようだった。

 

・テント張りも自分の分は自分で

 

 アムステルダムのキャンプ場には予定より3時間遅れて午後9時過ぎに到着した。即座にテント設営を指示したものの、誰一人として作業にかからず、張ったのはスタッフたちだけであった。設営を指示した後は一切無視、もしテントを張らなければ彼らは寝るところがないのだから。ただ今夜は雨になりそうだとだけは何気なく伝えておいた。緯度が高いとはいえ、アムステルダムでも7月の午後10時過ぎは薄暗く、ましてや雨模様であるからなおさらだ。
 それまで売店などに散っていた生徒たちは、雨がパラツキだすと慌ててパスに戻り、テントをバスから降ろし設営を始めた。このときも手伝ってやればすぐ済み、テントもしっかり張れるのだが、ここで手を出すと生徒たちの自律を妨げることになる。雨に濡れながらあたふたしている生徒たちを見ながら、この方法が一番なのだ。手を貸すことは容易だが、生徒たちを自律させるのは難しい。手を出さないで見ているのは心苦しいが、彼らを自律させるためだと何度も自分に言い聞かせた。
 騒ぎが収まったので自分のテントを出て見回りに行くと、慌てて張ったのではなはだ頼りない。これでは雨に濡れたらぺしゃんこだと思って注意だけはしたものの手助けはしなかった。夜半に濡れたくなければ直ちに自分たちで張り直せばよいのだから。すべて自分が取った行動に自分で責任を取らせよう。現実の生活を通して彼らに自律心を身に付けさせようというのがこの旅の目的だからである。
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この手記は月刊「権利闘争」(権利問題研究会発行)にて連載されたものです。転載の許可をいただきました関係者の方々に感謝いたします。