・生徒たちは「自由行動」を主張
夕べ遅くキャンプ場入りしたので午前中は生徒たちをゆっくり休養させ、午後からアムステルダム市内見学。生徒たちは自由行動にしてくれと申し出たが、今までの彼らの言動を観察した上での評価としては、とてもじゃないが自由行動は認めがたい。
私としては彼らにできるだけ自由を与え、責任もしっかりと取ってもらいたいと思うのだが責任を果たすことが彼らには難しい。夜、自分たちは自由がもっと欲しいからもっと責任も果たす、これからは言うことも聞くから明日は自由にしてくれと申し出てきたがまだ早いと私は判断した。
案の定、翌日の出発時デンマークの生徒から文句が出た。日本の生徒が夜遅くまで騒いでいたので朝食準備が遅れたと。そのことについて日本の生徒としつこいほど「責任ある自由」とはどういうことなのかを話し合った。私が日本の生徒と話し合っているのを知っているデンマークの生徒たちも日本の生徒たちと渋々ながらよりを戻し始めた。日本の生徒とデンマークの生徒が一つの団体として行動する社会が出来上がり、そこでの問題解決のため話し合う社会の中に自ずと規律も生まれ始めてきたように思えた。
アムステルダムに一週間滞在したのち次の目的地はパリである。パリへ出発の前日私は生徒たちに言った。
「明日このキャンプ場を午前10時に出発する。午前10時までに朝食を済ませ、身の回り品、携行品などを整理し、テントを撤収してすべてバスに積みこんでおくように」
「・・・」
「10時定刻に出発するので遅れた者は置いていく」
ところで生徒たちのパスポートは私が保管していた。パスポート無しでは国境を越えられないことは出発前に教えておいたのである。
パリ出発の朝、生徒たちは時間厳守をクリアしたのである。私は内心ほくそ笑み、
「みなは立派だ。全員時間を守った。感心している」
と告げ、この調子ならこの旅はうまくいくと思ったものだ。
・「パリってどこの国」
ベルギーを通過し、フランスに入り、パリの標識が見えてきたので、寝込んでいる生徒たちに大声で知らせた。
「パリまで約250キロ!」
「パリってどこの国だっけ?」
「知らねエ〜ヨ!」
後ろの座席で話しているのを聞くと、この生徒たちは日本の学校で何も習っていなかったのかと愕然とする思いであった。パリまで800キロ近い距離を佐々木と200キロずつ交代でドライブした。
パリのキャンプ場の位置はあらかじめ地図上でマークしていったのだが、パリ市内に入っていってしまってロストポジション。迷路に入ってしまったも同然。道を聞いても、「ジュヌセパ」(フランス語で「知らない」)となかなか英語をしゃべるパリっ子にぶつからない。地図上でマークしておいたキャンプ場はパリの南郊外にあると覚えていたのでもっぱら天文航測、夕方の太陽を右上にみながら南へ南へと走行した。町並みが切れ始め、郊外らしくなってきたところでバスを止め、キャンプ場を聞くとなんと指さして教えてくれたではないか。見事な天文航測と我ながら感心したものである。
夕食は遅くて作れないので近くにあったアラブ系のレストランでものすごく辛いソーセージとフランスパンで済ませた。ぶつぶつ不満をを言っている生徒たちに翌日の指示を与え解散した。
この晩、生徒たちはディスコに行ったとかで朝帰り、おまけにキャアキャアうるさくしたのでキャンプ場のほかの客からフランス語で大目玉をくらった。私は引率者としてただただ平身低頭お詫びをするのみ。もちろん私もフランス語でこっぴどく怒られたのである。
「この東洋人、ヤボネ、礼儀知らず!、マナーをわきまえろ!、真夜中だぞ!、出て行け!」
たぶんこんな事を言っておられたのであろう。、しおれるくらい情けない思いをさせられてしまった。パリの最初の日だというのに、再び先が思いやられ始めた。
・4人の生徒パリで行方不明
翌日はパリ市内見学、午前中に郊外電車と地下鉄を乗り換え、コンコルド広場で降りた。昼食は穂積さんが日本食を振る舞ってくれた。昼食後シャンゼリゼ通りの入り口で、
「ここが有名なシャンゼリゼ通りである。この先に見えるのが凱旋門だ。現在時間午後2時、今から3時間自由時間とするので午後5時凱旋門の真下に集合」
生徒たちはアッという間にシャンゼリゼに消えてしまった。穂積さん、佐々木と私も銀ブラならぬ、シャンブラをしながら凱旋門に向かった。私たちは集合時間午後5時の30分前には到着し、生徒たちを待った。佐々木の娘エミとデンマークの生徒4人と日本の生徒4人は5時までに集まったが、残り4人の日本人の生徒は集まらなかった。最初の1時間は今来るか、今来るかと待ち心でいたが、1時間を過ぎると事故でも起こしたのではと心配になってきた。イライラしながら2時間待ったが、4人はついに姿を現さなかった。すると時間通り集まった生徒たちが早くキャンプ場に帰りたいと文句を言い出した。
「穂積さん、4人は2時間待っても来ないから帰りましょう」
「大丈夫でしょうかね〜、何かあったらどうします?」
穂積さんは’積木崩し’で有名になり、そのため日本の同じ悩みを持つ親御さんたちから相談を受け、連れてきた子供たちなのだ。その子供たちをパリで4人も見失ってしまったのである。心配のほどは痛いほど分かるが、どうしようもないのでキャンプ場に帰ることにした。
「彼らにはキャンプ場の住所や電話番号を持たせてありますから、何かあったら私が責任を取りますよ」
と答えながらも、どうしたらよいのか自分一人であれこれ考えを巡らしていたのである。まずはパリでの一週間の定住地に戻るべきだと私は判断し、郊外のキャンプ場に戻ったのだ。
キャンプ場でクライ不安な気持ちを持ちながら時間を守った生徒たちと夕食を取った。夕食後、私は警察や救急隊の電話番号を調べた。午後2時に解散し、その10時間後の午前0時までに4人の日本の生徒たちと連絡が付かない場合に備えた。穂積さんと私は同じテントであれやこれやと気を紛らすため、たわいないことを話すのだが午後11時を過ぎるころは話は上の空で、パリのど真ん中においてきた?4人のことで2人とも頭の中がいっぱいだった。
・戻った生徒を怒りを抑えてほめる
午後11時半ごろ、私たちのテントへドヤドヤと崩れ込んできた若者たちがいた。この若者たちは私がその時点で誰よりもこの地球上で会いたいと思っていた若者たちだった。顔をみたら張り倒してやりたいと思うほど待ちこがれていた連中だ。
4人は開口一番、
「すみませんでした!今度から気を付けますから」
張り倒したい気持ちでいた私は何とか激怒する感情を抑えた。
「よ〜くあのパリのど真ん中から帰ってきたねエ〜、あなたたちは偉いよ!」
「えっ?叱らないんですか?」
と気の抜けた顔。本当は彼らを張り倒してやりたいくらいだったが、
「どうして叱らなきゃいけないの?こんなに大変なことをやり遂げたあなたたちを?」
「・・・???」
よくぞパリのど真ん中から郊外のキャンプ場まで帰ってきたものだと彼らをほめているうちに、次第に心から彼らを愛おしく思った。張り倒したい気持ちはすでにどこかへ消し飛んでしまっていた。
「一体どうしたの?」
「迷子になってしまってのでパリの三越にいれば見つけてくれると思いましたが、閉店時間になっても誰も来ませんでした。だから店の人に頼んでタクシーで帰ってきました」
「えらい!!さあー疲れただろうから今日はもう寝なさい」
「ハイ!!今度からは気を付けますから、本当にすいませんでした」
と素直な言葉が彼らの口から出た。態度も立派だ。何かが彼らの中で変わり始めている手応えを私は感じたのだ。
「これからはイタリアのローマなどさらに大都市を回るから約束を守るように気をつけないといけないよ」
・大人たちが作った青少年犯罪
生徒たちは心を開いてきた。もし私があの時、夜遅く帰ってきた4人の生徒を怒鳴りつけていたら、必死になってキャンプ場まで帰ってきた彼らの努力は私という大人に無視され、彼らの心はより閉ざされたことだろう。
非行少年だの落ちこぼれだのと大人は彼らを呼ぶけれど、彼らは決して好きでそうなったわけではなく、彼らが成長していく過程で彼らを取り巻く環境、すなわち大人が彼らをそうさせたと知るべきである。
生まれたばかりの赤子をみたことのある人は同意すると思う。あの無垢の赤子がなぜ悪いことをする人間になるのかと。最近日本で青少年の異常な犯罪が増えていると大人たちは嘆いているが、彼らを製造しているのは我々大人たちであると知るべきである。子供たちはみな社会悪に染まる前は無垢であることを知るべきである。彼らは本当に純真で、素直な若者たちだ。植物だってしかるべき土壌と光と水を得ればまっすぐに育つじゃないですか。人間だってひねくれないように育てるにはそれなりの要素が必要なのである。
パリでの出来事以来、トラブルスクールはトラブルが少なくなり、私も再び自己満足に浸っていた。しかし問題は意外なところから起こることを思い知らされた。
・一行、汽車乗り間違え大混乱
パリに一週間滞在後、南仏のマルセーユに向かうのだが、生徒たちに当時世界最速のTGVに乗せたいと思い、パリとリヨン間の切符を購入し、乗ることにした。穂積さんと佐々木はキャンプ道具を積んだバスで走り、私は生徒たちを連れてTGVにパリのリヨン駅から乗ることにし、穂積さんたちとはリヨンにある本物のリヨン駅で落ち合うことにした。
時速300キロ以上のTGVは新幹線より速く、あれよあれよという間に午後2時に止まるはずのリヨン駅を通過してしまったらしい。車掌にリヨン駅はと聞くとノンストップだそうだ。フランスで2番目に大きい都市を止まらずに行くなんて!大変だ穂積さんたちとリヨンで2時に合流できなくなってしまった。
車掌に電話は?と聞くと車内電話は無いそうだ。エェ〜新幹線にはあるののに〜!どうしよう?時速300キロ以上のTGVと時速80キロのバスとの距離は開くばかりだった。とうとうマルセイユまで行ってしまった。フランスでは当時から’のぞみ’型TGVがあったんだとは知らなかったのは後の祭り。
その日宿泊する予定のキャンプ地は地中海沿岸でマルセイユからさらに50キロ北に位置していた。私は困った。キャンプ道具一式を積んだバスはのろのろとリヨン辺りをうろついているだろう。リヨン駅にメッセージを入れてもらったのだがなしのつぶてだ。現在のように携帯電話があればどんな便利だったろう。