・日本は「盆栽教育」

 

 私が日本に住んでいたころは「あいつはキレル」というのは頭のいい人の意味だった。ところが今の日本では「キレル」ということは、人を刺して殺したりする人のことを意味するそうだ。わずか30年の間に日本語がこんなに別の意味を持つ言葉に変わったのは、やはり日本の無意味な学歴社会を作るための教育制度に原因があるのではないだろうか。自然界に目をやると、それは証明される。一本の木をみてほしい。よい土壌があって、必要な肥料があって、成長に必要な水と太陽の光があれば、木はすくすくと天に向かってまっすぐに育っていく。切り倒した木の年輪をみるとその成長条件がよくわかる。条件が一番よかった年、逆に冷害に近かった年がよくわかる。
 人間だって「教育という土壌」がしっかりした社会の中にあり、親や教師から適切な肥料があり、太陽の暖かいエネルギーを与えればすくすくと真っ直ぐに育つはずである。植物を育てるとき、専門家は育てる植物の「個性」を実によく熟知してその個性に合うように肥料をやり、水をやっているのだ。
 人間という個性を育てる教育者は植物を育てるほどは人間の個性を尊重していないのではなかろうか。すべての人間に、ある一定の学歴を要求する社会、たとえば高等学校進学率99%なんていうことは何の誇りにもならない。それは、植物の例を挙げるまでもなく自然界に反することだ。日本の教育は「盆栽教育」だ。だから「キレル」子供や登校拒否を起こす子供が増えてくる。

 

・「奉仕」と「義務」を同列で使う無知

 

 私は登校拒否をする子供たちは勇気ある子供たちだと理解している。すなわち、自分はこんな教育にはついていけない、こんな教育(学校)は反対だと意思表示をきちんとしているからだ。ほかの子供たちは(本当に勉強が好きな子を除いて)いやいやながらも、親の言うこと、教師の言うことを聞いて学校に来ているに過ぎない。
 登校拒否をすると「社会的不適応児」、あるいは「学校不適応児」と大人は勝手につける。自分たちが不適当な社会を作り、学校教育を進めているにもかかわらず、子供を悪者扱いするのである。数年前に日本を社会福祉の行き渡る国にするため「福祉教育」をするべきだと唱えた方がいたが、当たり前の教育をしていれば福祉教育はありえない。そもそも福祉教育などという言葉すら存在しないのだ。
 さらに最近驚いたことは「奉仕活動の義務化」を小中高生にさせるべきだと唱えた御仁がおられる。日本語すら理解していない人がいう言葉ではないかと情けなくる思いである。「奉仕」と「義務」と相反する2つの言葉を1つにして使っている無知は何としたことか。

 

・職業選択に合わせた多様な教育

 

 デンマークの教育のあり方を知り、自分の子供たちがデンマークで受けている実状を理解するにつけ、日本の教育の抜本的な改革を痛切に感ずるのである。断っておくが、日本の教育制度を全面的に否定しているのではない。ただ教育の本質、義務教育、高等教育、大学教育、それぞれの教育の目的は何であるかを私たち日本国民はしっかり理解しなければならないのだ。
 猫も杓子も高等学校、大学へ行かなければならないという学歴社会の無意味さになぜ「知的水準」世界一と誇る私たち日本人は気づかないのだろうか?デパートの売り子になるのにも、銀行マンになるのにも、大学を出なければならないという矛盾に気づかないのであろうか。私は職業の貴賎などは毛頭考えていない。ただデパートの売り子、銀行マンになるにはお金の計算ができて、どんな接客態度をすればよいのかを教育してくれる専門学校へ行けばよいということである。
 デンマークには職業専門学校がたくさんある。この世に存在するほとんどの職業をまっとうするための知識や技能を教えてくれる学校だ。大体この種の学校は教育年限3年なので、義務教育後に高等学校に進む者は約40%、職業別専門学校へ行く者は60%という割合である。

 

・息子は教師を目指す

 

 さて、我が家の息子と娘のその後はというと、息子は高等学校の理数系に入学した。私に似て勉強があまり好きでない息子は、成績も当然あまりよくなかった。デンマークでは大学進学にも入学試験もなく、高等学校を卒業していればよいのである。しかし、医学部や法学部では高校卒の資格を持っていれば誰でも入れるというわけにはいかないのだ。入学希望者が募集定員を上回る場合は当然高等学校の成績がよい者から優先されるのである。したがって、どうしても希望する学部に入りたくても入れない場合は、高等学校をはじめからやり直すか、大学入学検定試験に類似した課程に入り、しかるべき成績を取り直さなければならないのだ。
 息子は教育大学に行きたいようなことを言っていたが、教育大学への入学はよっぽど高等学校の成績がよくないとストレートでは入れない。むしろ教育大学側は入学希望者に多様な社会経験を積むことを要求している。たとえば外国に2〜3年滞在するとか、あるいは児童関係の施設か一般の職場で働くとかである。現在デンマークにおける教育大学の入学生の平均年齢は24歳前後と言われている。当然卒業時の平均年齢は28歳前後となるので立派な大人である。日本のようにストレートで大学を卒業した子供が子供を教えるようなことはあり得ないのである。
 そんなわけで息子はその後しばらく、高校生のときにアルバイトしていた家具屋に就職して待機していた。面白いのは家具屋で働きながらセールスマネージャーの資格をOJT(オン ザ ジョブ トレーニング)で取れることだ。新しい教育を開始する前にこんな具合にいろいろな資格が取れる。いろいろな経験が豊富であればあるほどよい教師になるという理屈だ。

 

・娘は日本に体験入学

 

 9年生(中3)を終え、高等学校入学前に10年生まで息子は行ったが、娘はどうかというと、9年生を終えると日本の高等学校へ1年ばかり体験入学した。岩手県の沢内村の近くにある高等学校だ。この高等学校は日本全国で初めてデンマークの日欧文化交流学院に社会福祉の研修生として高校生を派遣し、今でも毎年続けて生徒を派遣している学校だ。娘は夏のうちは沢内村の社会福祉協議会事務局長の高橋氏宅に下宿、豪雪地帯で知られている地方なので冬は学校の寮に宿泊した。
 デンマーク人の級友チーナと一緒に行ったのでホームシックにもかからなかったようである。
 高校生なのに日本人はものすごく子供じみているというのが第一印象のようだった。また、いくつかの質問をして先生を困らせたようでもある。
 「なぜ制服を着なきゃいけないのですか?」
 「学校の規則だから」
 「なぜピアスをしてはいけないのですか?」
 「学校の規則だから」
 「ピアスやマニキュアをしたら勉強できないのですか?」
 「・・・・・・・」
 それはさておき、教師や級友たちには大変親切にしてもらったので、娘も友達のチーナも日本に対する良い印象を持って帰ってきた。日本語も片言はしゃべれるようになってきたので私もうれしかった。

 

・離婚が生む多くの非行の子供たち

 

 話が前後するが、その後の生活学園はというと、相変わらずデンマーク社会不適応児との闘いだった。私の学園にくる子供たちはすべて親が離婚した家庭から来ている。
 少年院に勤務していたとき、同僚の生活指導員と話し合ったことがある。
 「デンマーク人はなぜ幼い子供がいても離婚するのだ?」
 「夫婦がお互い嫌になると毎日けんかばかりして子供に悪影響を与えるか らけんかしない新しい家庭で育てるのが子供のためにも良いのだ」
 「子供にとっては離婚しても、実の親が一番だろうが」
 「だから週末や休みのとき、会うようにしているのだ」
 デンマークでの離婚の一番の理由は、どちらかまたは双方にほかに好きな人ができたときだ。ほかに好きな人ができると、自分の子供よりもその好きな人の方に愛情が行ってしまうのだ。日本人だったら子供が小さいからとか、世間体が悪いからといって我慢するでのはないだろうか(もっともこれは30年前の日本かな〜)。
 いずれにしても親の愛情を半減された子供は、すべての子供ではないが、その不満を非行の方にぶつけていることは事実だ。生活学園はこれら破壊された家庭からきた社会不適応の子供たちを私たち正常な家庭?で生活を共にさせ、社会復帰を目的としたのである。当然彼らと私の息子や娘と争いが起きることもあった。そのときは理由はどうであれ、まず自分の子供を叱った。自分の子供は彼らが先に悪いことをしたと言い張るのだが???。
 後で子供を呼んで、
 「Kenよ、おまえが悪くなかったのはわかっている」
 「じゃどうして僕を悪者にしたんだ?」
 「それはなー、あのときクラオスを私が叱ったら、その後クラオスの話を聞いてくれる親がいないんだ。誰も慰めてくれない」
 「でもクラオスの方が悪かったんだ」
 「そのとおり、だけどおまえはこうして訳を話している親が身近にいるじゃないか」
 学園の子供と争いがあるたびに、息子や娘が悪者にされるので、彼らはだいぶ私に不満を持っていただろう。私は密かに、自分の息子や娘を社会不適応児にしてまでもこの仕事を続けることはすまい、と思った。

 

・「国民高等学校」の創設を思い立つ

 

 1990年代に入ると日本からの社会福祉研修で訪れる来客が増え始めたので、私は生活学園からデンマークの伝統ある国民高等学校にしたいと思うようになってきた。生活学園はすでに国民高等学校の形式を取り入れて運営していたので、全寮制だから食住を共にしながらじっくりと社会福祉研修ができるし、同時に日本に興味を持つデンマーク人に対し、日本の文化や武道を伝達できると信じたからである。しかし、正式にデンマーク文部省の認可による国民高等学校創設には幾多の問題点があることを思い知らされることになった。
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この手記は月刊「権利闘争」(権利問題研究会発行)にて連載されたものです。転載の許可をいただきました関係者の方々に感謝いたします。